2018-02-10 / 今日の1000字「シーツが裂ける」

夫と同居を始めて早いもので五年くらい経つのだが、このたびめでたく、シーツが裂けた。

ちょうど五年ほど前、二人で住む新居のために購入したベッドは、マットレスがちょっと特殊な形状をしている。長方形は長方形でも、幅と厚みにぴったり合うようなシーツがなかなか市販されておらず、いつも同じ店で購入することになる。選択肢はほんの十数種類で、季節ごとの素材感や二人の色の好みなどで絞り込むと数種類しかない。最初に新調したとき、米国に転居したとき、渡米二年ほど経ったとき、少しずつ買い足して季節ごとに使い分けている。

裂けたのは一番最初に買った冬物のボックスシーツで、お値段も一番高価、色は濃紺。夫の足元にあたる向かって左下部分が横方向に擦り切れて、びりびりになっているのを数日前に発見した。といっても、普段まったく上下を気にせず掛け替えているので、これは私の背中にあたる向かって右上部分が摩耗した可能性もある、どちらか一人に責任を負わすべきではない、というのが夫の主張。まぁでも常識的に考えたら就寝時、背中より足元のほうが激しく動くものではないかね?

あまりにも盛大に、数カ所いっぺんに、小気味いいくらい見事に裂けたので、これはもう繕うには手遅れであろうと、結婚して初めて、シーツを捨てた。大人二人で毎日毎晩寝起きして、五年保ったのが長いのか短いのかよくわからない。赤子がいたりするともっと耐用年数が短いのだろうし、乾燥機に放り込んでかけっぱなしにせずちゃんと広げて丁寧に干すようにすればもっと長持ちしたのかもしれないが、裂けた今から考えても詮無いことである。

二つのものを思い出した。ミサンガと、鏡開き。新生活開始と同時に買い求めたボックスシーツが、その社会的使命と歴史的役割を終えて土に還る。自然と擦り切れるのを「時が来た」吉兆と捉えるのはミサンガに似ているし、祝い事のために迎え入れたモノを祀り上げて供養するのは鏡開きや、どんど焼き(左義長)を彷彿とさせる。ボックスシーツに願掛けをしていたわけではないが、結婚生活とはこういう儀式の繰り返しで続いていくのだなと思うし、特定の宗教を信仰していない夫婦だからこそ、感慨深いものがある。愛用していたモノが壊れたのに、なんとなくおめでたい気持ちになるのは、不思議なことだ。

説明が面倒なので、Wikipediaの抜粋引用を直貼りしておく。とくにオチはない。

ミサンガ
手首や足首などに巻きつけて使用し、紐が自然に切れたら願いごとがかなうという縁起担ぎ(逆ジンクス)の意味がある。(略)ブラジル出身のサッカー選手の多くがつけているのは、バイーアにある BomFim(ボンフィン)教会の周辺で売られている Fita (フィタ、リボン・ひも状のもの)であることから、フィタもしくは、そのままボンフィンと呼ぶのが一般的である。(略)長いリボンを手首や足首に2回巻き、3回結ぶが、その時に各1回ずつ計3回お願い事をする。それが自然と切れた時に願い事が叶うといわれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC

鏡開き
鏡開き(かがみびらき)・鏡割り(かがみわり)とは、正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D

左義長
1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7

2018-02-06 / 私と私の遺影のこと(2018)

一月の日本出張から無事帰国。滞在日記はのちほど書くとして、久しぶりに「遺影」を更新したので載せておく。いえーい。以前からお世話になっている資生堂フォトスタジオ、この時期は就職活動生で予約がいっぱいとのことで、午前中のうちにササッと撮らせてもらった。寝て起きたままのすっぴんで行って、スキンケアからフルメイクと撮影とチョイスまで含めて所要時間は二時間程度。翌日仕上げ。さすがプロの仕事は早い。2013年に撮ったときとまったく同じカットソー、七角眼鏡はつい先日新調したもの、アクセサリーは雨宮まみさんのおさがり。今は本当にくっきりした太眉が流行なんだなとよくわかる。リップは当初コーラル系だったのが、試し撮りしながらどんどん濃く修正されていって最終的にワインレッドに。自己ベスト体重だった2013年と見比べると太ったなーと思うけど、33歳が38歳になったのだから、ま、こんなもんでしょう。



(c) 岡田育 / Iku Okada / 2018
(c) 岡田育 / Iku Okada / 2018



当プロジェクトについては、2009年に書いた日記が発掘されたので、これを機に転載しておきます。そもそもの発端は子供の頃、「矢野顕子が、篠山紀信と、毎年、遺影を撮っている」(>そのうち一葉がアルバム『オーエスオーエス』のジャケットになっている)というエピソードを知ったこと。それで20代前半のいつだかのお正月、沼田元氣氏に撮ってもらった白黒写真がすごく良かったので、しばらくの間「私が死んだらアレを遺影にしてくれ」と言っていた。さすがに毎年とはいかないけれども、生きること老いること死ぬことについて考えるたびに、その二つを念頭に置いて遺影を撮り直している。本当は沼田伯父が鎌倉にひらくという写真館で撮りたいんですけど、いったいいつ開館するんだ、第一号の客として予約したはずなのに10年くらい経っちゃったよね……。

一つ目の真顔の写真は女性陣(カメラマンと私とメイクさん)ほとんど満場一致で選んだのだが、二つ目の笑顔の写真は、ヘア担当の男性から謎の激賞を受けて残ったもの。自分一人だったらまず選ばないカットなんだけど、だんだんこういうものについて、他人の意見を参考にできるようになってきた。顔や体格だけでなく性格も丸くなってきたということなんでしょうな。いつまでも古い写真を使っているのが気になっていたのでアップデートできてよかった。

2018-01-31 / 正月帰省日記

1/21、朝一番でJFK空港へ。荷物が多いので大型のUberを呼んだら、オンボロ車のトランクに孫の私物を載せているようなおじいさん運転手が来る。ほんの数年前までいつどこで誰を呼びつけてもピカピカに美しい車と最高のサービスが受けられて「タクシー価格でリムジン気分!」と大興奮していた、あの感動を返してほしいよ。スーツケースを運ぶにも「俺、too oldだからtoo heavyなの無理」と言われて、仕方ないので三人がかりで積み込む。かわいく言えば許されると思うなよ、じじい(許した)。チェックインカウンターでは「到着地の天候不良のため午後便は遅延」とアナウンスが出ていて、我々の便までがギリギリ飛ぶらしい。

セキュリティゲートに滑り込むと、夫のオットー氏(仮名)が通ったゲートでビービー警報が鳴っていて、何かと思ったら冷え対策で肩に貼っていた「蒸気の温熱シート」だった。金属探知機めっちゃ反応してるし、若くて無知な警備員たちみんな「この一見温厚そうな東洋人男性の左肩におかしな反応が」「ワッ、熱いぞ! ほら、触ってみろ!」「おお、衣服の下に奇妙な白い極薄のパッドを装着している、なんだこれは、剥がせ! 今すぐ!」と大慌てで、他の客まで騒然、先にくぐって靴履きながら振り返った私だけ瞬時に事態を把握して大爆笑。言われてみれば、使い捨てカイロって、こちらの人はあまり使わないよね。一応英語では「heat pad」と言うそうだが、鉄粉含有発熱体なんか服の下に貼りつけて持ち込もうとしたら、そりゃ爆発物と思われて当然である。公衆の面前で諸肌ひんむかれたオットー氏、覿面に弱っていた。乙女だからな。

今回もまた「夫の出張で貯まった家族マイルを利用しておJAL様に乗る」のだが、昨年は11月に乗って12月に帰り、今年は1月に乗って2月に帰るので、つまり、『スカイワード』のみんな大好き浅田次郎連載「つばさよつばさ」が、四回連続で読めてしまう……! これはさすがに我ながらブルジョワ旅すぎるのではないか……と震えつつ、前号の記憶が鮮明なうちに持ち主不明の革製スーツケースの話やら「ティファニーで朝食を」の話やらを読み、いたく豊かな気持ちになる。なお松浦弥太郎の連載は四号連続で読んでも毎号必ず「おい、これユニクロから莫大な広告料もらって、JALから膨大な原稿料もらって、その上まさか『服にまつわる私小説』みたいな書籍化して印税まで発生させるつもり!? すげーなおい、やっぱ発想が違うよね弥太郎は!!」しか感想がない。小西康陽の音楽連載は、空の上だとすぐポチれないのがつらい、か、買わせて。

機内では『キングスマン:ゴールデンサークル』と『バトルオブセクシーズ』を観る。どちらも素晴らしい映画なのでおすすめです。どうでもいいんだけど、あまりにも書評が苦手な自分に嫌気がさして、数年前に一度アカウント全削除した「MediaMarker」を復活させました。買ったもの、観た映画、読んだ本、ちゃんと記録つけるようにしたい。とか言ってるそばから『スカイワード』は除外。やっぱり雑誌パラパラめくるのなんか読んだうちにカウントしませんよね。腰を据えた読書の時間をとるぞ。

羽田空港に着くと22日夕方。滑走路除雪作業のため到着30分遅れ、と言われて窓の外を見るが、ニューヨークの降雪に慣れきっている私は、さほどの大雪とは思わずにいた。外に出てタクシーを拾い、東京都心へ向かうさなか、事の重大さを思い知る。そう、東京の民は、除雪をしないのだ。ロードヒーティングもないのに、融雪剤を撒かないのだ。そして、今夜は雪が降るかもと言われても、朝、傘を持たずハイヒールで出勤したりするのだ……「真っ白に埋もれた歩道を、軽装でヨチヨチ歩くサラリーマンやOLや高齢者」を見て心底ゾッとする。雪靴、履いてください。宿にチェックインして軽く夕食を摂り、事前に予約を入れていた徒歩圏内のネイルサロンへ行くと客が私しかいない。そりゃそうか。

23日、検便と採尿から始まる38歳の誕生日。今回の帰省の主たる目的は、人間ドック。会社勤めの頃はまだ若かったし定期健康診断で済ませていた。数年前から人間ドックに移行したけれど、今までのは健診の代替みたいなやつで、いわゆるフルコースでの受診は今回が初めて。自分の身体のことなのに「副脾」とか「遊走腎」とか初めて知ったよ。生まれて初めて内視鏡を呑むも、強力な麻酔が効いてスヤ〜と眠っているうちに終わってしまった。というか、MRIや胸部CTでも、別に麻酔はしていないのに薄暗い空間で横になっているだけで心地良くてスヤ〜と眠ってしまう。この時点で精密検査の結果を待つまでもなく健康優良児っぽい。これを書いている2月上旬にはもう結果が出ていて、だいたいA(異常なし)かB(軽度所見)。次のフルコース受診は何年後になるだろうか。

夜は実家に帰省、先日亡くなった伊賀の祖母への香典を渡し、秘技「香典その場返し」として伊賀肉すき焼きをご馳走になる。訃報だけを聞いて神妙な気持ちになっていたのだが、家族でせーので忌引を取得し、曽孫を連れての弾丸関西家族旅行、義務を果たした後はうまいもん食って観光名所回って、ずいぶん楽しかったようだ。故人も浮かばれるであろう。石川禅主演の音楽座ミュージカル『メトロに乗って』TV放送も無事に録画されていたのでDVDで受け取る。超のつく個人主義で互いの領域を侵さない我が家、普段はこうした依頼をしないのがルールだが、今回ばかりは拝み倒してゲットした……我ながら最高の誕生日プレゼントじゃない……?(自画自賛) 定番中の定番、トップスのチョコレートケーキに「38」の蝋燭が立ち(さまざまな意味で重い)、人間ドック直後だというのにべろんべろんに酔っ払い、時差ボケで夫婦二人ぐらんぐらんに船を漕ぎながら、メトロに乗って、宿へ帰投。治安のいい街って素敵ね。
 
24日、新書館の吉野さんと打ち合わせと称して「洋菓子舗ウエスト」でお茶。敏腕漫画編集者から「岡田さんは、漫画は描かないんですか?」と言われたので笑った。買うか、クリスタ……。あとこれは単なる耳寄り情報なんですけど、バレエと韓流とフィギュアスケートとBLでおなじみの新書館が、「その他」カテゴリにおいて洋画DVDの販売を始めたのだそうで、「へえ、どんなジャンルですか?」「平たく言うと、若き日のマッツミケルセンとかです」「御社編集長の模索する趣味と実益、歪みねえな……!!!」というのに大変感銘を受けたので記しておきます。ブツも有難く頂戴したので拝見してから感想など書きます。

午後は「Twiggy」で髪を切る。かかるのは2ヶ月ぶり、次はいつになるかわからないのでなるべくキープしやすい髪型にしてもらう。夜は永世七冠達成のお祝いで羽生善治さんと会食。ワインを飲んでエゾジカを食べる。何を話したかはナイショなのさ。改めましておめでとうございます。

25日、乙女美肌室、世界堂、焼魚定食、歯科健診、読売新聞社大手小町編集部で打ち合わせして、同じ建物の中央公論新社へ顔を出す。軽い気持ちで「『手酌』の元上司にもご挨拶できたら……」と言ったら、新聞社の厳重なセキュリティの都合上、各方面へものすごく手間をかけてしまった。ともかく大変お世話になりました。夜は森内俊之さん&佐藤康光さんの紫綬褒章受章記念パーティ、だがもろもろ雑事を片付けているうちに移動時間的に断念せざるを得なくなる。12月にお目にかかれたからよいか、と思いつつ、トークショー聴きたかったよ……。本や雑貨など買い物。長宗我部で鰹のたたき。カウンターに女一人客で座ったら、全ての皿をハーフで出してくれた。神対応か。未来の自分のためにメモしておく。

26日、午前中はkobeniさんとお茶。海を越えてはるばるやって来て、堺雅人と石川禅と小沢健二とそれぞれのファンコミュニティの話しかしていない。虎屋の羊羹、玉木屋のふりかけ、その他ツボを心得た日本土産を頂戴する。海外在住者へ贈る食品は何がいいか? とわざわざリサーチしてくれたのだそうだ、有難い。基本的に「羊羹、ふりかけ、だしパック」を与えておけば間違いがない。地域によると思うけど、NYは割とスナック菓子は入手できてしまうし、包装の凝ったものや嵩のあるものは、帰国時の荷造りで取り回しに困ったりもするので。あと「便利な文房具」と「小ぶりなコスメ」ですかね、これは自分でも大量に買って帰るんですけど。

午後、担当医の都合で二日制になってしまった人間ドックの後半を済ませる。夜は中村太地新王座と会食。またワインを飲んでまたエゾジカを食べる。一日置きにタイトルホルダーとごはんしてしまった……こっちも何を話したかはナイショ。北海道産か何かの百合根がめちゃくちゃ美味しかった。こんなもの英語圏にはないわな、と辞書を開いたら「lily bulb」と書いてあって、何なの、そのまるで食指をそそられない直訳は。しかしこりゃちょっと贅沢すぎ、前日のパーティーは遠慮して大正解でしたよね、と帰国後いつまでも「1月」のまま壁にかけてある日本将棋連盟カレンダーのみっくん会長に語りかける。

27日、資生堂フォトスタジオで写真を撮る。昼食は油そばのようなもの。GINZA SIXの「蔦屋書店」へ行ったら必要な買い物にやたら時間を奪われてキレる、キレた様子をつぶやいたら、バズる。東京在住の頃に内蔵されていたジャイロコンパスをすっかり失った感じ、と言おうか、一日のうちにもっとあれこれ予定を詰め込めるのにな、と思いつつも、こうやってちょっとしたトラップに嵌まってしまって、あれもしたいこれもしたいと思うToDoリストをまるで消化できない。角川書店(といまだに言ってしまう)の編集者Kさん、二村ヒトシさんと『オトコのカラダはキモチいい』関連、その他、今後の打ち合わせ。帰投、爆睡。

28日、夫のオットー氏(仮名)体調不良につき、鎌倉行きをキャンセルする。沼田元氣伯父とはまた今度。安静にホテル朝食。その後も安静に、本当に何をしていたのかまったく記憶にない一日だった。たぶん、NHKオンデマンドでプルカレーテ版『リチャード三世』を観たのはここ。傑作すぎる。あと、このほどめでたく再入会させていただいた石川禅後援会「Z-Angle」から届いた会報をまとめて受け取り咽び泣きながら読んだのもここ。推しに萌え転がりながら肌ツヤがよくなり、下手な『通販生活』よりいろんな商品を購入したくなるこのシステムすごい、読む麻薬か。みんなで健康になろう。ちなみに届けてくれた人が郵送物の差出人を「ゼット・エンジェル」と読んだね。すなわち天使。

夕方、受け月で本間拓也くんと「MOFi」の三谷匠衡くんと会う。夫のオットー氏(仮名)がちょっとケヴィンスペイシーに似ているという話になり、「そんなん人類を二種類に分けたら私だってロビンライトに激似だわ!」とキレる。本当に惜しい人を亡くしましたよね、死んでないけど……。で、『攻殻機動隊』の次にハリウッド実写映画化すべき日本漫画は? という話になって「そこは『ファイブスター物語』だろ! あと私、『ワールドトリガー』同時上映『あげくの果てのカノン』、というセットもいいと思うんだよね!」など無責任発言を多々。その後、米代恭さんと金城さん、たらればさんと四人で飲む。いったいどういう取り合わせだ、何が目的の会合なんだ、とみなさま不思議に思われるでしょうが、とくに他意はなく、たまに一時帰国をするとスケジュールの都合で二つの宴会が一つにドッキングしたり、一つの宴会が三つに分裂したり、ということが起こるのです、あるある。というわけで、二次会はたらればさんとハトコさんと三人で飲む。たっぷり小室哲哉と永野護の話をした。あと、前世に高僧だったというTwitter民の話を信じるか信じないかとか。婚外恋愛は有罪だがかのんは無罪だみたいな話とか。新連載の、話とか。いやー、これもナイショですね、ナイショ!

29日、朝8時台の新幹線に乗って新大阪経由で宝塚大劇場へ、花組公演『ポーの一族』観劇。素晴らしかったです。ちょっと言葉がない。ただの原作信者なのに、ここまで幸福な気持ちになっていいんだろうか、とさえ思った。そのうち別項目を立てて感想を書く。隣に座った客にちょっと不快な目に遭わされたりもしたのだが、それを差し引いても夢心地のまま、終演と同時にサッと電車に乗って帰京。車中で何があったかとかもよく思い出せない、気がついたら東京に着いていた、これ『レディ・ベス』遠征のときも同じこと書いたな私。東京駅から直行で、夜は新しくなった井雪へ。着々と次世代が育っていた。

30日、「腐女子座談会」の編集Rことひらりささんの新しい職場へ訪ねてランチをごちそうになる。彼女にとっては新しい職場だが、私はじつは以前にも伺ったことがあり、行くととてもよく見知った顔とばったり会ったりして、なんだか不思議な気持ちに。そそくさと移動して、次は金田淳子さんたちと打ち合わせ。「おみやげが!」と言われて渡されたのがカレー沢薫メシアの日めくりと、『HIGH&LOW』シリーズのファンムックだった。仕事の話の五倍くらいの尺を取って「ハイローにも中高年俳優は出ている」という貴重な情報を伝授される。そ、そ、それを先に言え!! おっさんが出てるなら話は別だ、と勢い込んでみたものの、我が家の環境では日本版「Hulu」観られなかったよ……私はいつハイローの民になれるのだろうか。こちらからは「鹿賀丈史が『アカギ』に出ている」「大竹まことの在籍するシティボーイズは三人組なので、実質T・M・Nですよ!!!(※男二人組の性的関係性を意味するBLに対抗して編み出された、男三人組の萌えを指す言葉、特定の人物団体等には関係ない)」という貴重な情報を伝授したところで時間切れ。のち、文藝春秋で武田さんと、こちらは真面目な仕事の打ち合わせ。気持ちが穏やかになる。うまくいくといいな。

夜はジョーリノイエさんを訪ね、鮨と麦焼酎をごちそうになる。ジョーさんと私の馴れ初めを語ると三日三晩では足りないが、早い話、サシのファンミーティングですね。「切手を貼らないファンレターを所属事務所まで徒歩で届けて関係各位を震撼ドン引きさせた中学生ストーカー」が25年後にはこうなる、ということで……自分で書いてて自分が怖いわ……。何が怖いって対象こそ変わりつつ25年後も「美声の男に目が眩むと常軌を逸した行動力を発揮する」という己の本質が全然変わっていない点であるよ。近況報告がてら、時には仕事の話も、と思ったのだが、若き日の無茶苦茶な武勇伝を聞いてるだけで面白くていけない。出てくる出てくる、書けない話。いつも通り、遊んでるだけで時間切れ。

31日、キノノキの担当編集Wさんと打ち合わせ、明月庵と樹の花。この後も何をしていたか記憶がない、宿に戻って帰りの荷造りなどしていただろうか。あちこちに本を抱えていって合間の時間に読んでいると、行く先々でまた紙の書籍をいただく、ということが重なって興味深い。わらしべ長者みたいな気分になる。反対に、どういうわけだか今回は、ミラーレスカメラをほとんど持ち歩かなかった。写真を撮りたくないわけではないのだけど、本を読んでいる時間のほうが長かった。書店もあちこち覗いてみたのだが、リアル書店のいったいどこに自分の新刊が置かれるのか、まるでイメージが湧かない。最近はKindleで電子書籍をポチッてばかりなのだから当然である。しかし、ほんの数年前まで、企画に悩んだときも私生活に行き詰まったときも、本屋にさえ行けば解決策が見つかると、そんな暮らしをしていたはずなのにな。あっという間に変わってしまったな。件の「蔦屋書店」ショックもまだまだ抜けず、新しく本を書くという行為、何か途方も無い世間からズレたことをしようとしているんじゃないかと錯覚してはそれを振り切る。

夜はマームとジプシー&川上未映子「みえるわ」@渋谷WWW、初日。これまた本当にとても良くて、二年半ぶりに観たマーム、いろいろ込み上げてしまった。生着替えと、第四の壁と、まっすぐ届く音と、まるで翻訳文学のような再演。また書くね。打ち上げで手持ちの『オカキモチ』を献本し尽くし、藤田くんに「今なら刺されても大丈夫」と言われたのが可笑しかった。焼肉食べてカラオケ行って深夜にべろんべろんで帰宅。気がつくとずっと肉を焼き続けている私。音声をオフにして一人静かにエロい映像を撮り続けている森さん。ちょっと信じられないくらい歌が上手い斎藤さん。未映子さんがジムで一曲目に何聴いて気分アゲるか、という話。誕生日の晩にワイングラスを割ってしまったのを思い出す光景。私がいない間も東京はずっと続いていて、今夜も充さんの手元のビールはちょっと目を離した隙に瞬殺されている。からげたドレスの裾、上下するジッパー、内側から発光する雪螢。なんだこの喜ばしい気持ちは。

1日、二日酔いに苦しみながらもつつがなく帰国。そういえば取り置きまで頼んでいたのに穂村さんと名久井さんの本を買いそびれた、と気づいたのは空港で。帰りの機内で観たのは『スリービルボード』、あとはずっと寝ていた。そこから一週間以上ずっと時差ボケに苦しむことになる。ほとんどめったに家から出ずに、東京の電源をオンにするのは一瞬で、オフにするのは大変で、でもだから遠くから眺める渦中にいてはわからないあの光が綺麗なのよね、と考えたりする。同じような感傷が、時差ボケに苦しみながら一気見した『マスターオブゼロ』の中ではニューヨークを舞台に描かれていた。日がなカウチでドラマ観る気力しかない……いや、これ優雅に聞こえるけど本当に苦しんでいるんですよ! 翌日からスッキリ元気なときもあるのに、今回は気圧のせいもあるのだろうか、今まだ出力40%くらい。

最近「短く要点を書く」ことを求められてそればかりしていたので、今回は「10000字くらいだらだら長く書いてあるのだが、中身がないから、誰も読まない」というのを目指してみた。といってもまだ8000字もない。前回は「何をしに来たんですか?」「なんにも」という会話を繰り返していた。今回は「元気で生きてる?」「ぼちぼち」という会話が何度も何度も続いた気がする。実際に言われた回数じゃなくて、自分自身の胸に刺さった回数なんでしょうな、こういうものは。














2018-01-17 / 今日の2400字「孫と先生」

母方の祖母が永眠した。享年90。ずっと施設に入っていて、親戚が面倒を看ており、東京の母も定期的に様子を見に行っていた。最期は安らかに呼吸が止まり、大往生だったという。海を越えて危篤の報を聞くたびにヒヤヒヤしていたのだが、延命装置は不要だという強い強い意志は、ずっと以前から家族みんなが聞いていたことだ。「その時が来たのだ」というふうに受け止めた。本人の気持ちはもう確かめようがないのだし、看取った家族の側が「大往生」だと言うのなら、それはもう、そうなのだと思う。

夫にあたる、母方の祖父は彼女が在宅で看取った。大学の長期休暇で暇にしていた私もその付き添いをして、葬儀の後始末まで関わった。意思疎通もままならず、普段ポーカーフェイスだったのが見たこともないほど苦痛に顔を歪める、痛ましい姿も晒していたが、それでもやっぱり、看取った側、遺された側からすれば、最後の最期は穏やかな畳の上の「大往生」だった。話を聞く限り、同じようなことが祖母にも起きたのだろう。夫について「あれは理想的な亡(の)うなり方をしたんや」と言った、彼女の理想も同じように叶ったのだろう。

日本帰国予定に間に合ってほしいと祈っていたが、ほんの数日違いで早くに亡くなって、ぱたぱたと家族葬が済んでしまった。母方の祖父母は共働きの教員カップルで、地元一の進学校で教えていた祖父が亡くなったときは、地元の名士and/or歴代の教え子がぞろぞろ参列する大規模な葬儀が執り行われた。高校時代に祖父の教え子だった人の大半が、中学時代には喪主である祖母の教え子でもあった、というような関係性で、思い出話に花が咲き、挨拶の列はずっと途切れなかった。あれから20年近く経ち、祖母の葬儀は身内だけでごくごく小さく済ませたそうで、孫の私が花を届けることさえ遠慮するようにと言われた。その非対称性に物申したい気持ちもあるが、まぁ、祖父らしいし祖母らしいし田舎らしい。

数年前に結婚相手を見せに行ったのが、結果的に最後の別れとなったか。直接対面してのち、昔のアルバムなどめくった夫は、祖母の姿を見て「び、美人……!!!」と絶句していた。そう、若き日の祖母は容姿端麗、頭脳明晰、女学校出の家庭科教師で、書家でもあり、茶道も華道もピアノも堪能、辺鄙な田舎では文字通りマドンナ的存在、嫁入りしたときは祖父の兄弟含めて多くの妙齢男子が失恋に涙を呑んだ……そうなのだが、孫である私の印象とはずいぶん違う。ばりばりの関西人で、生粋のボケであり切れ味鋭いツッコミであり、親戚一同が集まると祖母の自虐ネタでひとしきり爆笑が起きた後に必ず「黙っていれば楚々とした美人に見えるのに、中身がね……」という話になる、いわゆる「残念な美人」だ。「……だが、そのギャップがいい!(萌)」という信奉者もいて、夫のオットー氏(仮名)も、すっかりそんな様子だった。

教員だから子供の指導は上手い。サボる奴とデキない奴には、情け容赦なく冷酷である。幼い頃、私は祖父から国語や地理や歴史や生物の手ほどきを受け、そちらは得意分野だったのでずいぶん褒められて可愛がられた。一方、祖母が担当するのは書道であり裁縫や料理であり、ピアノであり茶の湯である。全部苦手。一通り教わって所作を真似するのだが、普段ニコニコと初孫を甘やかし面白い冗談ばかり飛ばしている祖母が、こと専門分野となると朱筆などを手にギロリと目を光らせ、「……こら、あかんな」と一瞥で匙を投げ、「あんた、真面目にやり」と呆れ声を出すのが、その豹変ぶりが、私は大層怖かったものだ。大好きなミュージカル女優の新妻聖子様が、あの美貌にあの娯楽性を兼ね備えた上で、歌が上手いですねと褒められたとき「死ぬ気で歌えば一音だって外すはずがないですよねー!」とケタケタ笑うお姿などを見ると、ふと祖母(顔だけなら知念里奈似)を思い出したりする。

傍目には夫唱婦随の旧時代的なカップルで、しかし我々家族の目に映る姿は、ずいぶん進歩的で対等な男女だった。いかにも偏屈そうで亭主関白的に振る舞う祖父の横で、ヘラヘラ笑って王様に対する道化のように対外的な嫁プレイを楽しんでいるのも、完璧主義者ゆえの見事な演技か何かのように見えていた。祖母世代の超人的なバイタリティ、世界大戦を生き延びて教養を資産とし田舎の旧弊な家父長制の下では完璧にハイスコアを叩き出す良妻賢母業をこなしつつ職業婦人としてもサバイヴしてきた、あの「学のある女、なめんなよ」という音もなく静かに紅い熾火のような迫力は、なんとも形容しがたいし、フェミニズムという横文字の言葉では表現し尽くせない。さして努力せずともそこそこに恵まれた時代をスイスイ生きる孫の私は、我が身に照らして「……あかんな」と思うばかりであった。

子供の頃から母に倣って「みえこさん」と名前で呼んでいて、「おばあちゃん」という、どこか人をスポイルさせる響きを持った甘ったるい呼称とは、うまく結びつかない。私にとって母方の祖父母はずっと、一番身近なところにいる「先生」だった。すぐ到達できないのは仕方ないけど一応あのくらい高めに目標設定しておきなさいね、という位置にいる存在。日本帰国の直前、家族葬の写真が送られてきて、祖父の葬式のときにはまだ一人もいなかった小さな曾孫たちがうじゃうじゃうじゃうじゃ、画面狭しと暴れまくっていた。彼らには「ひいおばあちゃん」の記憶はほとんどないだろう。現世でのお別れをした後にでも、語り継ぐべきことはまだまだたくさんある。

さてこれで私にとって父方と母方の祖父母がすべていなくなったことになる。彼らにとっての長男長女である我が両親は、「次は自分たちの番だな」と話していた。その次は、私だ。そういえば、マイナビニュース連載「女の節目」にも、ちょっと祖母のことを書いた。ゆっくりと、順番に。
https://news.mynavi.jp/article/onnanofushime-27/