diary

2017-01-02 / 自己紹介

需要を感じたので、まとめて書いておきます。渡米してから初対面の人に「私は誰か」を説明する機会が増えました。共通の文化的背景を持たない相手にゼロから経歴を説明するのってこんなに大変なんだ! と苦労しながら、慣れない言葉で「ゼロからの自己紹介」を重ねています。あれを日本語に翻訳しなおすとどんな感じかな、と想像しながら、新年の節目に少し長めの自己紹介を書いておこうと思いました。

講演を頼まれたときなどに使う「逆再生」方式で行きます。日本語のプロフィール文ってなぜか出生年から書くのが定跡になっていますが、個人的には「汝は何者か?」という問いかけに答えるときは「正順」より「逆順」の時系列のほうがずっとよいと考えています。そして、講演だったらそれっぽく見出しなどつけたり大事な要点を箇条書きにしたりして自分を大きく見せる努力を厭わないものですけど、まぁここは日記帳ですし、読むほうもダラダラ読んでください。





岡田育といいます。主に自分自身が見聞きして考えたことを一人称のエッセイ形式で書いています。依頼があればインタビュー取材や、作品評論などもします。フィクションの著作はなく「小説家」ではありません。「作家」や「ライター」という肩書きもしっくりこないので、自分で「文筆家」と名乗っています。英語でいうと「Author/Writer」で、ジャンルは「Autobiography」ですね。

2015年8月に東京からニューヨークへ引っ越してきて、今はニュースクール大学傘下のパーソンズ美術大学でグラフィックデザインを専攻しています。エディトリアルデザインを基礎から学び直すためです。ずっと日本語圏の出版業界で仕事をしてきたのですが、日本語の漢字仮名交じり文と英語のアルファベットでは、文字組も違えば、読み手が文章を追う視線の流れも違い、単行本の装幀にまつわる細かな約束事なども違います。つまり「読みやすさ/読みにくさ」という概念からして、使用言語によってまるで異なるわけです。そして日本語と英語の話者人口は、1億余と20億超のひらきがある。今まで「日本語しかない世界」で自分がなんとなく培ってきたノウハウや成功体験のうち、どの部分が国際的に通用するもので、どうするともっと大きな規模のオーディエンスに届くのか、そんなことを考えながら、本の装幀やポスター、パンフレット、企業ロゴなどを実作しています。絵を描くのも好きなので、ファッションドローイングやプリントメイキングの授業も受けました。こちらがそのポートフォリオです。

今後はフリーランスとして職を探しつつ、日本語での執筆活動も続けつつ、いずれ英語圏でも「Author」として「Designer」として実績を示せるようになりたい、というのが今のところの目標です。何かをやめて何かに「転向」したわけではなく、「いつかは一本の線でつながる」と信じて、来た球を打ち続けたいと思います。タイポグラフィーの師匠がよく「We are not decorators, we are problem-solvers.」と言っていました。「情報を整理整頓し、概念をかたちにして、問題を解決する」という意味では、文章を書くのも、図案を作るのも、よく似ていると考えています。





これまでに三冊の著作を出版しました。平日昼間の仕事の合間に、本にするためのエッセイ原稿を中心に、ウェブや紙の雑誌に単発の記事を書いたり、テレビやラジオに出たりしていました。

一冊目は『ハジの多い人生』というタイトルで、これは「幼少時代について書く」というのが裏テーマになっています。アメリカかぶれの両親の下で三姉弟の長子として育ったこと、キリスト教系の私立一貫女子校で非モテのオタクとしてクダをまいていた話、少女時代を過ごした1980〜90年代の東京カルチャー、などなどが盛り込まれています。太宰治『人間失格』の手記は「恥の多い生涯」と始まりますが、私の人生に多い「ハジ」は、「ハジッコ」の「ハジ」です。まだ東京が世界の中心だった時代、教室の隅っこで寝たフリしながら休み時間をやりすごし、中央に属しているはずなのにどうしても「真ん中」を歩いていけない、そんな疎外感を感じて人格が形成されていった過程を書いています。



二冊目は『嫁へ行くつもりじゃなかった』というタイトルで、フリッパーズ・ギター『海へ行くつもりじゃなかった』が元ネタです。生涯独身でいるつもりだった女が、なぜ結婚したのか? その答えは「知人男性から道端でいきなりプロポーズされたから」で、結婚を決めるまでお互いに相手を恋愛対象と見做していなかった、いわゆる「交際0日婚」「いきなり婚」というやつです。「素敵な恋愛をしないと幸福な結婚ができない」といった考え方は、ほんの数世代前から生まれた一種の共同幻想に過ぎず、親世代が恋愛結婚をしたからって、我々までそうせねばならない義理はない。誰かと家族になるとき、そこに「恋」なんかなくたって、十分「愛」を育んでいくことはできる。私は「恋愛が苦手」だから「どうせ結婚もできない」と思っていたけど、よくよく考えるとその二つは別物だよね。恋愛すっとばして結婚したってええじゃないか、というメッセージを込めております。



三冊目は『オトコのカラダはキモチいい』というタイトルで、AV監督の二村ヒトシさんと、社会学者の金田淳子さんとの共著です。英語圏では「男性主導で発展してきたアダルトビデオやHENTAI的なポルノグラフィと、女性主導で発展してきたやおい・ボーイズラブ・腐女子の文化から、日本社会の性とジェンダーについて考察した本」である、と説明しています。「日本人男性は、自分自身の肉体が『愛でられる』ことに慣れていない。女性たちが旧時代的価値観と闘争しながらみずからの性欲を解放してきたように、彼ら男性の意識を解放すると、男も女もハッピーになれるのではないか?」と真面目に論考する社会学の本なのですが、実際には「週刊少年ジャンプで男性キャラの乳首はどう描写されてきたか?」「新宿二丁目に集まるゲイってボーイズラブも読むの?」「ノンケ男性のアナルを開発するとおちんちんがどう変化するか、SMの女王様に聞いてみよう!」といった、気軽に読める内容です。



大統領になったとか連続殺人鬼だとか宝くじに当たったとか、何か特別な体験をしたわけでもないのに、あなたの「Autobiography(自叙伝)」に読者がいるのはなぜ? と訊かれることも多いのですが、「伝統的な性別役割の押しつけがおそろしく根強い日本社会においては、女性が女性として意見を述べることは、まだそれだけで珍しがられる。たとえば、私みたいな普通の人間が “I am Otaku girl and proud” とか “Ain’t no wifey” みたいなことを言うだけで、ワーオ、こいつフェミニストだぜ!? と驚くような人たちがいる。そんな日本を変えたくて、基本的に『怒り』をエネルギーに、『無理解』をなくすために書いている」「もともとブロガーとして活動していたので、同世代の文化系女子の代表として『インターネットの登場が私の人生を大きく変えた』という体験談の語り部になることも多い」と答えています。いざ言語化すると仰々しいですよね。

2013年から2年間、フジテレビ系の朝の情報番組『とくダネ!』にレギュラーコメンテーターとして出演していたのが、最も「目立つ」仕事だったと思います。プロデューサーから直接誘われて受けたもので、テレビタレントとして活動していたわけではありません。「朝のお茶の間ではまったくの無名だが、深夜のネットのサブカル界隈ではちょっと知られている、若くてオタクな女性」という珍獣枠の選出で、主婦を中心とした視聴者層とは少し違う角度から物事を見ているキャラ、という役割期待だったと認識しています。「人前でライブで話す」というのは、「一人で文章を書く」とはまるで違う頭の使い方を求められるので、とてもよい勉強になりました。





それ以前の肩書きは「編集者」でした。2004年に新卒採用で中央公論新社という出版社に入社し、2012年まで8年半勤めていました。最初に配属されたのは雑誌『婦人公論』編集部で、ここでは主に巻頭特集の企画と、著名人のインタビュー記事を手がけていました。小説や漫画、カルチャー欄の連載担当もしましたし、サイトリニューアルや公式ブログ開設にも関わり、ライターさんと一緒にあちこち潜入取材してルポルタージュ記事を作ったこともあります。アダルトグッズ業界に取材を重ねたのが受けて、ローターやバイブやオナホールの読者プレゼント企画を打ったりもしていました。

次に配属されたのは単行本書籍を手がける編集部で、純文学から時代エンターテインメント小説、大型新聞連載から新人作家のデビュー作、エッセイや将棋の本まで、手を上げて会議を通せたものは何でも作りました。あるとき街の書店で新刊の陳列台を眺めながら、「この本の著者も、あの本の担当編集者も、その本の装幀家も、みんな顔見知り、ってすごいことだよな……」と思ったのをよく憶えています。狭くて深くて濃密で影響力絶大、「小説より奇なり」という言葉がぴったりの仕事です。最高に楽しいし、定年まで勤め上げる気まんまんだったのですが、東日本大震災の後、ほぼ同時期にさまざまな新しいお誘いを受けたことがきっかけで、転職を決めました。

「会社員として誰かと本を作りながら、個人として頼まれた原稿も書く」という二足のワラジの両立は、自分の能力的に到底不可能だろうと考えていたのですが、その後『オトコのカラダはキモチいい』を出したときに「著者兼編集者」という役回りで動いてみたところ、やっぱり自分はそのくらいの遊撃戦が一番向いているようにも思いました。少しは成長できたようで、達成感がありましたね。現在は心境が変化して、また別の職種で会社勤めをしてみたいという気持ちもあります。





社会人になる前は、学部と大学院あわせて6年間、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で過ごしました。学位は「メディアデザイン修士」です。我ながらまるで意味不明ですが、それでも「環境情報学士」を英訳して説明するよりは通りがよいので助かります。今でこそ卒業者数も増えましたが、私は学部新設から数えて9期生で、最寄の湘南台駅は小田急江ノ島線の各駅停車しか止まらず、近所のコンビニがようやく24時間営業になったことに先輩たちが涙を流して喜んでいる時代でした。

学部2年時から佐藤雅彦研究室に所属して、表現とメディア、教育方法論などの研究をしていました。世間的に一番わかりやすいのは「NHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』を制作し、ピタゴラ装置のビー玉を転がしていた」なんでしょうが、私が一番印象深いのは、携帯電話(i-mode)と新聞紙面を使った新しい社会調査プロジェクト『日本のスイッチ』の企画立案運営です。このプロジェクトは現在終了してサイトも閉鎖していますが、活動記録として単行本書籍が出ています。この際、「後世に何か残したいと思ったら、まだまだ物理的な紙の本が最強なのでは……?」と思ったのが、出版業界へ進んだ理由でした。卒業後の今も「考え方が生む表現」「作り方を作る」といった研究室の合言葉は、私の核になっていると思います。パーソンズに通っていると、外国人留学生のクラスメイトたちがよく「母国で通っていた学校とまるで違う……」とカルチャーショックを受けているのですが、私は「大学とはこういうものだ、教育とはこうあるべきだ」をはかる絶対的な基準値が佐藤研であって、おそらくは共通の背景にバウハウス・メソッドがあるためでしょう、そうした違和感は皆無でした。

家庭教師からバーテンダーからスーパーマーケットの野菜売りまでいろいろアルバイトを掛け持ちして、2001年以降は沼田元氣氏の編集アシスタントをしていました。当時いろいろな大人から「この人の下で働いてたら、どこでだってやっていけるよ……」と呆れ顔で言われた意味が、今はとてもよくわかります。初仕事は「真冬の真鶴海岸で石を拾う」でしたからね。本の編集校正作業から企画展示の裏方からカルチャースクールの司会から裁判での証言までやって、人生経験値が上がりました。芸術家の仕事を間近で眺めて「ああ、私自身はまるで芸術家タイプではないんだな」と実感できたのも大変よかったです。





そういえば最近、「インターネット歴」について尋ねられる機会も増えてきたので、手短に。大学生だった1998年頃からHTMLでホームページを制作し、ウェブ日記を書いたり、いわゆる二次創作同人サイトを作ったりしていました……globetown.netで(懐)。2002年にアカウントを開設した翌年から日記を「はてなダイアリー」へ移行。2005年3月にid:okadaicを取得してハンドルを統合、当時のブログタイトルは「帝都高速度少年少女!」といいます。仕事では婦人公論編集部ブログに新米としてコラムを書いていました。2007年5月からはTwitterへ軸足を移し、いくつかのアカウントの「中の人」もやりました。連投tweetのための「続)」、引用のための「(承前)」表記は私が元祖だと思います。以後は「Twitterの人」として認知されていて、フォロワー数こそ少ないですが、ずっと私の活動拠点です。

英語圏ではTwitterの代わりにInstagramで日記をつけていて、たまにMediumでも書いています。いろいろなサービスに手を出してきましたが、今も更新を続けているのはTumblrのラクガキ絵日記買い物の記録くらいです。いずれも不定期。

高校生のとき、NHKのテレビ番組『ソリトン』で世の中にはインターネットというものがあるらしいということを知り、是非それに触ってみたいと強く憧れたのですが、両親が機械に弱く、我が家にパソコン環境が導入されることはいっさい期待できませんでした。それで「インターネットに触れるには、インターネットが専門の学校へ行くしかない!」という理由で、進路志望を大きく変更してSFCへ進学した経緯があります。電気ガス水道と同じくらい常時接続が当たり前のインフラとなった今時の若者には信じられないかもしれませんが、私の少女時代にはインターネットは「蘭学に触れるには、長崎へ行くしかない!」と同じくらいの扱いだったのです。

「インターネット以前」の時代がもう少し長く続いていたら、私のような人間が本を書いてテレビに出るなんてことも、あるいは離れた場所でまったく別の人生を歩んでいる人といきなり結婚するなんてことも、起こり得なかったと思います。というよりも、私たちの人生に占める「インターネット以後」の時間がどんどん長くなるにつれ、「好きなように生きる」ハードルがみるみる下がっていった、私のような人間でも徐々にその恩恵を受けることができるようになった、というふうに感じています。10代の頃、私は将来、「まだ名前のついていない新しい職業」に就くことになるのだろう、と夢想していました。今もそれがいったい何なのかはわかっていませんが、求めに応じて複数の肩書きを書き連ねながら、同じ一本の線をなぞっていきたいと思います。





出身は東京都、東急電鉄沿線。父と母と2歳下の妹と10歳下の弟がいます。子供の頃の夢は考古学者か宇宙飛行士になることでした。今の夢は灯台守になることですが、有用無用を深く考えず世界とつながりながら孤独に続けられる仕事という意味で、割と似ていると思います。YMOと沢田研二を子守唄に育ち、7歳のとき萩尾望都『ポーの一族』を読んでいたく衝撃を受け、また9歳のとき連続幼女誘拐殺人事件の逮捕報道をきっかけにオタクが迫害されるようになり、あれやこれやを人生の天秤にかけた結果、「どんなにいじめられても好きなものを隠さずに生きていこう」という謎の執念を持つに至りました。小学生時分から今の言葉でいう「腐女子」的な性癖の持ち主でしたが、どちらかというと「隠さない」ということのほうが強いアイデンティティになって、そこの部分を露悪的にこじらせている気がします。

中学進学と同時に他校でいうところの「文芸部」に所属して、詩と小説を書いていました。高校1年生のとき部長を務め、部内誌の編集長になったのですが、編集長権限で「台割」(=目次構成)を切るのがあまりに楽しくて雑誌作りそのものに夢中になり、挙句、自分が書くべき原稿の締切を落とし、他の部員に細かすぎる指示を飛ばしてページの穴埋めにぴったりの原稿を書いてもらう、という体験をしています。当時の夢は現役女子高生作家としてデビューするか一度死んで緒川たまきに生まれ変わることだったのですが、のちのち編集者になった際、あれが人生の転機だったのかもしれない、と何度でも思い出します。専業作家になる子はそんなことしない。印刷所に発注してオフセット本を作り同人誌即売会に初めてサークル参加したのは中学2年生頃だったと思います。以来、この世に自費出版ほど楽しい趣味はないとさえ思っています。今も「久谷女子」というサークルに所属して、夏と冬のコミケで同人活動を続けています。

ちなみに「岡田育」はペンネームですが、本名は「育子」といいます。待望の初孫が生まれたとき、両親が結婚した街・紐育に因んだ「育子」(原料原産地表示)にするか、赤子が生まれた街・東京に因んだ「京子」(生産地表示)にするかで最後まで揉めたそうですが、めぐりめぐって「育」になりました。それで今、めぐりめぐってその子供がニューヨークに住んでいるのだから、やはり、人間の生命とその原料原産地との間には、何か不思議なパワーが働いているのでしょうね。以上、長い長い自己紹介でした。

2017-01-01 / 謹賀新年、実質無職。

あけましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。フィラデルフィア旅行のことさえ書いてないんだな! ずいぶん日記更新を怠ってしまったので、たまには真面目に近況報告などしようかと思います。デスマス調で。

ニューヨークで迎える二度目の正月です。2015年秋から籍を置いているパーソンズ・スクール・オブ・デザインは、3学期目にあたる2016年末までで全単位を取得し、飛び級卒業となりました。クリスマス前に学科生だけ集めた簡単なセレモニーがあり、今年5月に全学あげての卒業式を迎えます。今月末からまた新学期が始まって、私はまだそこに属す「学生」ではあるのですが、もう「卒業」してもいるから一コマも追加履修できないんですね。じつは春学期にめちゃくちゃ履修したい授業を見つけ、しかしそれを取るには再入学にも等しいコスト(=学費)がかかると判明して断念しました。何もかも学校中心で「やりたいこと」より「やるべきこと」に追い込まれた1年半がすでに恋しく、まだまだ大学に居残りたい未練がものすごいのですが、このくらいの「強制排出」で社会へ送り出されてしまったほうがいいのかもしれません。「学校」は居心地がよすぎるよ。

引っ越しが決まってから私はずっと「英語圏で働く」ことを一番近い達成目標と定めていて、2016年はそのために専門性を高めたり、新しいビザを申請したりと、慌ただしく過ぎていく助走期間でした。昨秋からは果ての見えない求職活動を始め、私に残る障害はやっぱり言語だなと痛感したので、2017年はとにかく、サボっていた英語の上達を頑張りたいと思います。海外生活者の言う「暮らしていれば自然と上達する」ってのはあれは大きな嘘で、私のように向上心の無い人間は「生活に支障はない」けれども「プロにはなれない」状態がずっと続くだけ。今年は「英語の壁を超えていく」を頑張ります。

一方の「日本語圏で働く」については、学校の宿題に追われて大事な約束を破りまくっていた2015年後半よりは、多少マシな状況になったかな、と思っています。2016年は中断していた連載を再開させていただいたり、見ず知らずの方から新しい企画にお誘いいただいたり、会えば5分で片付く話を電子メールで長々と打ち合わせしたり、あるいは、「アメリカについて書く」といった依頼を頂戴したり……。試行錯誤の一つ一つが有り難く嬉しかったです。昨夏、約1年以上ぶりに一時帰国して生まれ故郷へ戻ったとき、「私は今までよりもずっと、この街のことが好きだ」と素直に思えました。離れると覚悟を決めてから再訪するとまるで違った場所のようで、とても新鮮だった。地の利は最悪だし、半日分の時差も生じますが、これからも海を隔てた遠い場所から、「日本を見つめて日本語で書く」ことも続けていければと思います。

社会人向けの大学プログラムへ通って、世界中から集まった私と似たような境遇の友人たちが、生活の糧としての仕事と、キャリアアップのための学業とを、とても上手に両立させていることを知りました。稼いだ金で学校に通い、学んだことが次の仕事の価値を高める。どちらか一方に集中すべきときは他方を中断しても全然構わない。こうしたフレキシビリティは、日本社会でエスカレーター式に育ち、気づけばこれまで履歴書に一つも空白期間がなかった(!)私にとって、ものすごく自由に感じられます。みんなが世の中のハジッコに陣取って、思い思いの手順で歩むべき道をみずから切り拓いている。この感覚こそが「普通」とされる国に来られてよかったな、という気持ち。今後とも、あちこち回り道して「働きながら学び続ける」が理想です。

学期最後の授業で、一番お世話になった恩師から「君は、DesignerでありWriterでもある。この二つが一つに結びついているのは稀有で素晴らしいことだ」というような言葉を贈られ、日本語の通じない相手からさえ、ただ作ったものだけを見て、そんなふうに評価してもらえたことに、ちょっと、いやかなり、調子に乗っているところです。「なんで物書きなのにデザインスクールなんか通ってるんですか?」と質問されることも多いのですが、私個人の感覚としてはずっと、おそらくは子供の頃から、「概念をかたちにする」という、ただ一つのことにしか感心がないのです。思いついた手段を試しながらその達成を目指しているだけで、その一つ一つは目的ではない。日本語の世界と英語の世界を行ったり来たりしながら、それを万人に納得してもらえるような表現活動を心がけたいと思います。

以上、新しい年を迎えて、この街で「大学生」の肩書に一区切りつけて「実質無職」となったご挨拶でした。ニューヨークを舞台にしたドラマ『パーソン・オブ・インタレスト』(※全腐女子必見)の劇中、「こんなシケたところで大卒の無職に混じってコーヒー飲んでる場合か!」みたいに揶揄される場所があるんですが、そこが、我が家からめっちゃ近所の、私のよく行く馴染みのコーヒー屋なんですよね……。このままではイーストビレッジに跋扈するプロニートの一員になってしまう! 働きたいでござる! 働きたいでござる! というわけで、2017年もよろしくお願いいたします。

2017-12-31 / 師走まるごと

まるまる一ヶ月も日記を書いていないときはどんなふうに総括すればいいんでしょうかね。名案がまるで思い浮かばないので、箇条書きで済ませたいと思います。後から思い出して書き足すかもしれません。そのうち、そのうち、そのうち。

11月29日。ドミの授業はinstruction、いくつか案を持って行ったなかで、サンクスギビング休暇のフィラデルフィアから帰ったばかりの私は愛国機運が高まっており「合衆国国旗の正しい畳み方」が一押しだったのだけど、まるで響かず、「日本まで14時間のフライトを快適に過ごす方法」のほうを作るようにと激励される。

11月30日。シロクマ先生やズイショさんと、Twitter上で「恋愛の高速道路理論」みたいな話をする(ログはここ)。恋愛をドライブに、交際0日婚を徒歩に喩えたこの「恋愛の高速道路理論」って相当いいネーミングだと思うんだけど、はてな民を下手に刺激するのも何なので自粛。



12月1日。フィラデルフィア発祥のANTHROPOLOGIEで特価69ドルで買ったラムウールのガウンをおろす。DavidHの授業はストロボの講義が(まだ!!!!)続いている。女生徒がみんな撮られるのを嫌がるので、いつも被写体になる男の子がいて、私がちょうどその子の後ろに座っていたので、私まで実験台になる。途中、DavidHのカメラがストロボと連携しなくなったので、私のオリンパスが貸し出されて実験台にもなる。だから、この日の授業でいろいろなレフ板を使いながら撮った写真が、今も私のカメラロールに残っている。何もかも懐かしくなる日がいずれ来るのだろう。しかし授業内容は本当に何も残らなかった。私の作風だと一生ストロボ使わんからな。

12月2日。金曜、特記事項なし。

12月3日。クリスマスに向けてアドベントカレンダーを作ったら素敵ね、とか言いながらもちろんそんなことをしている心の余裕がない。『Citizenfour』というスノーデンのドキュメンタリー映画を観る。昔からいいメガネだなと思っていたけど、やっぱりいいメガネだった。当時は衝撃的なニュースだったはずなのに、フィクションのドラマ『パーソンオブインタレスト』を観ていると感覚が麻痺してきて、今は現実を観ても「まぁ、こういう奴も出て来るだろうね」という感想になってしまう。

12月4日。寒空の下、夫のオットー氏(仮名)をマディソンスクエアパークへかりだして、ポートフォリオ撮影のための助手とモデルを務めてもらう。ホットチョコレートをおごり、気の早いクリスマスプレゼントを買って、労をねぎらう。喫茶店の前をとても賑やかなデモ団体が通り過ぎてゆき、店員と「あれ何だろうね?」「あ、ほら、例の、水のやつだよ(We Are Water thing)!」と話していたのだが、帰宅してニュースを見たら Dakota Access Pipeline 建設計画について陸軍が代替ルートを検討するとのこと。ずっと抗議デモが続いていて、私も学内の友人の呼びかけを聞いて近所の公園でちょっとだけ参加したので、感慨深い。

12月5日。月曜、特記事項なし。

12月6日。9時から11時40分までの朝の授業が終わった後、19時から21時40分までの夜の授業の前に、イーストビレッジまで髪を切りに行く、という鬼畜の所業。遊んでいるみたいで気が咎めたのだが、前髪が邪魔で邪魔で仕方がなかったので、その後の生産性を上げるためにも行ってよかったと思う。ただやはりそのぶん夜の授業で見せるものがうんと少なくなってしまい、反省。ドミの授業がちょっと座学っぽくなったのはこの日だったろうか。かつて自分が手がけたという仕事を見せてくれたんだけど、相変わらずそれ自体はイマイチな出来なのである。そして蔵書を持って来てくれるんだけど、こちらはどれも素晴らしい。古川タクみたいなタッチで描かれたカメラの本がめっちゃかわいくて褒めたら、それは別の人だか図書館だかの蔵書で、どうしても欲しかったドミちゃんが、全編ゼロックスしてパーフェクトバインディングして作った「コピー本」なのだという。「でもそのコピーの粗さがまたいいよね!」と褒める。平和な世界だ。

12月7日。動画の授業が本当につらい。今からでもドロップしたいのだがもう成績がつくので逃げるわけにはいかない。

12月8日。ファイナルプレゼンテーションの前週なのに、まるでそんな雰囲気のないDavidHの授業。もうほとんど講義はなくて、時間があいて準備のできてる人から順番に個別講評をしてもらう。私も来週発表予定の作品をPC画面でスライド形式で見せる。レーザープリンターでの試し刷りと、本番用に購入したセミグロスペーパーの質感サンプルも見せる。登校する直前まで全30枚くらいから絞れずにいて、夫のオットー氏(仮)に厳しめに見てもらって25枚ほどに落とし、自分で20枚ほどに落とし、DavidHと相談しながら表紙込み16枚くらいまで削る。韓国人クラスメイトM(愛称をムーンという)がとくに私の作品に興味津々で、すっごく褒めてくれる。彼女は写真専攻の1年生らしく、同じ「入門編」の授業に在籍していても腕前は断然、彼女のほうが高い。多重露光をテーマに複雑な作品を撮っている。でも東京大好き日本贔屓らしくて、日本人の私がやることなすこと褒めてくれるので、気恥ずかしくて痒くなる。今までの授業でとても評判がよく、私もなかなかお気に入りだった一葉を「素敵だけど、全体の雰囲気を壊すからこの写真集からは絶対に落としたほうがいい」と相当キツめに言ってくれたのも彼女だった。DavidHもそれに賛同して、「面白いね、よく起こることなんだよ、最高の写真が、最適の写真とは限らないんだ」と笑った。学級崩壊したgdgdの講義だったけど、彼らのような人たちとは、こういう時間をもっと長く取りたかった。

12月9日。朝のEmilyの授業が終わった後、Aちゃんとカフェテリアへ昼飯を物色に行く。朝食メニューのベルジャンワッフルがまだあったので二人とも「トッピング全部のせ」を注文。ここのカフェテリアの名物と言われているだけあって、たしかに上品な味でおいしかった。これならば外のカフェで食べるよりもお得感があるよなぁ。ハンバーガーとか二度と注文しないぞと思うけど。ファッションドローイングにも顔を出したはず。

12月10日。「SantaCon」って、日本語でも「サンタコン」で通じるのだろうか? 「みんなで示し合わせてサンタクロースのコスプレをして飲み歩く街コン」のこと。よその地区は知らないが、うちの近所は通り一面がサンタに埋め尽くされる。1994年サンフランシスコ発祥とのことだが、大人のニューヨーカーたちは「ここ数年で急に盛り上がりだした」と迷惑そうに顔をしかめている。夜は外食するつもりだったが、あまりの騒々しさに嫌気がさして、家にあるもので簡単に夕食を済ませる。頑張って寝ようとしたけどうるさくて眠れなかった。ハロウィーンはいいんですよ、ハロウィーンは。家族みんなで楽しめるし、ギークもナードも盛り上がるから。サンタコンは自分たちのことイケてると信じて疑ってない若者ばかりがウェイウェイしてるしコスプレも「ただ着ただけ」って子が多いので、見ていてつまらないな。

12月11日。雪の日。特記事項なし。

12月12日。月曜、久しぶりに「cuba」へ行った。いつもの魚介のキャセロールを食べる。これを食べるたびに『ドラえもん』に出てきた、「畑で獲れた大根を割って出てくるシチュー」を思い出す。「汁っけの多い旨そうな煮込み料理」を見ると全部アレを思い出すんですがね。

12月13日。完徹。Annaの授業は今週で最後。数分ずつ全員のファイナルプレゼンテーションをして終わり。週末ほとんど一睡もしなかったのに、全体の90%くらいまでしか仕上げられなかった。無念なり。リサーチを褒められ、コンセプトを褒められ、アイデアスケッチを褒められたが、「レンダリングとインスタレーションがねぇ……あなたが精一杯頑張ったのはわかるんだけど……」と言われる。これは、実作したデザインを現場写真の中にはめ込む、いわゆる「完成予想図」のこと。私のプランは「公園全体を金属製のリボンでラッピングする」というもので、「公園の中心に巨大建造物を置く」「街頭から看板を吊るす」みたいな楽勝プランの子たちよりもずっと手間がかかるのである。「メインビジュアルはこんな感じだから、あとは脳内で補ってね」というテイで発表したのだが、所詮、100%でないものは100%でないのであった。これは「A-」であって「A」はもらえないなぁ。という自己評価。

ドミちゃんの授業はまだまだ続く。年の瀬でみんなテンパってきて個別相談の時間が取れなかった。帰り支度のドミちゃんがイカしたつば広の中折れ帽を被っているので、「素敵な帽子ですね」と言ったら「これは僕のDetective Hatなんだよ」とご自慢げ。これだからナードは……。「探偵かぁ、そしたら、Pipeが要りますね、ホームズみたいに」と言ったら「No! Cigar! and… Scotch!」といちいちキメポーズをつけてノリノリである。このネタ30年やり続けてるだろ。すっかり気分が高揚したのかノリすぎて照れたのか、私の上着をうやうやしく着せてくれるサービス付き。ハードボイルド探偵事務所そんなサービスしねえだろ。ちなみに授業の内容はまるで憶えていない。

12月14日。特記事項なし。いやいやいやいや。「Motion Concepts」の最終発表日だったのだった。あやうくスルーするところだった。Erikという、かつてSallyの教え子で、引き抜いて同僚にして、今はフリーランス? というような、まぁ「講師のおぼえめでたく口利きで就職先をゲットした成功例」のような男性がゲスト講評者として来ていた。私の作ったものは、先週の時点でSallyに「Bor… いや、Boringとは言いたくないんだけど、それに近い問題がある。」とけちょんけちょんに言われていたのだが、今までの経緯を知らない彼が初見で「I like it. Simpleでいいね。」と言ったので急に評価が上がった気がする。とはいえ、何もかもがやっつけ仕事のまま終わった授業だったなぁ、という感想。AfterEffectsの基本操作は覚えられたけれども、(就職活動的な意味で)映像の世界へ足を踏み入れようとは、ちょっと思えなかった。こういうとき私はいつも、萩尾望都が「漫画家に向いているのは、カケアミを描くのが好きな人」と言っていたのを思い出すのだ。かわいいお姫様が描ける人でも、奇想天外なストーリーを思いつく人でもなく、それらを作品に仕上げるために、背景のカケアミを描き続けられる人。SallyもErikも「映像作家に向いている人」であるが、私はそうではないだろうな、と思い知る授業だった。いずれちゃんと向き合ったり、それで楽しさを見つけたりする日が来るといいな。

12月15日。写真の授業はつつがなく最終日を迎える。全員が全員まるでやる気のない授業だったが、写真学科の子も、ファインアート専攻の子も、私と同じAASグラフィックデザインの子も、私が「いいな」と思っていた学生たち(約半数くらい)は、みんなそれぞれに凝った作品を作って、ちゃんと高品質印刷なり手製本して持参してきていて、とても見応えのあるファイナルプレゼンテーションだった。友人Mのキワッキワに攻めた建築写真のアコーディオンブックが優勝かなぁ。それと、芸術写真としての「自撮り」を続けているファインアート科の子が、「それぞれの写真で一番明度の高い部分」を黒い板にレーザーカットで転写して、セットで展示するというのをやってて、これも面白かった。私も、いわゆる「うっかり芸術っぽく撮れたストリートスナップの山に、後からテーマ性を付した」部門(数名いる)の中では、たぶん一番好評だったのではないか。まぁ、準備不足の不真面目な子たちが最後の数日に間に合わせで撮ろうとするとこの部門のエントリーとなるわけですが。「カラー写真なのに白黒写真のように見える」というしばりで、レタッチなしでその場の撮影方法だけに頼る、というコンセプトを、事前からちゃんと伝えてあったので、それを基準に良し悪しをはかってもらえたのがよかった。

ドミは、ラストから数えて二日目。Project5のファイナルプレゼンテーションで、できてる子は完璧にできてるんだけど、私は「最後のモックアップ」みたいなものしか見せられず。火曜日までに帳尻を合わせないといけない。今日を最後だと思っていた(あるいは本当の最終日にはそんなことできないと知っている)Jが、巨大なcake……とみんなは呼んでいるが日本人感覚だと「巨大なシュークリームのおばけ」みたいなお菓子を持って来ていて、軽く打ち上げ。ドミが17mm単焦点、私が25mm単焦点で、クラスの様子を盗み撮る。その撮り方があまりにも自分と似ていて、この人は本当に……私をそのままおっさんにしたような人だな……と思う。全部片付けて帰ろうとしてたところへTimとAちゃんが立ち寄り、そこからまた大騒ぎ。久しぶりにTimに会えてとても懐かしい。はしゃぐ。同じ時間帯にTimのコマを取っているAちゃんは逆に、久しぶりに会えたドミに直近の作品をプレゼンテーションしながら泣きそうになっている。卒業が近い。

12月16日。朝から牛丼。昼はCHOP’Tのサラダ。Emilyの授業がなんとかかんとか終わる。必修だから取ったけど、まるでカタルシスのない授業であった。最後のプレゼンはみんな一通り褒めてもらえてたのだけど、それにより、彼女が「心無く褒める」人であることが露呈した感じがする。明らかにレベルの低い子にまで棒読みの賛辞を述べていて、「あ、私も別に気に入られてたわけじゃないのかも」と不安になる。ともあれこれで一段落、他が全部終わって、週末はDmitryのことだけ考えていればよい。近所のホテルの一階にある素晴らしい店のカモで打ち上げ。

12月17日。学校で自習していた土曜日。秋学期もあと月曜火曜の授業を残すだけとなったので、ずいぶん人口密度が減った。友達と待ち合わせてNY在住日本人コミュニティの忘年会へ。人間のクズみたいな酔っ払い方をするサラリーマンというのを久しぶりに見て「こういう人は早く本社へ帰って新橋圏から外へ出ないで欲しいな」と不快な気分にもなったが、それとは全然関係なく、何人か面白い人物と知り合えてよかった。もちろん、人間のクズみたいな酔っ払い方をする若者とか、どんな宴席でもずっと「お客さん」感覚でいることにより日頃の鬱憤を晴らす輩というのは、日本人に限らずアメリカ人でも何国人でもいるので、日本人だからとくにひどいというわけではないのだが。

12月18日。夕飯は新しくできたギリシャ定食屋。近所に「定食屋」が見つかると外食の幅が増えて有難い。日本の「定食」とはちょっと定義が違うんだけど、「定食」としか言いようがない。

12月19日。月曜、休講日。家に籠もっていた。

12月20日。「パーソンズ最終学期の最終日をあなたという師と迎えることができて、私は本当に光栄です」というわけで、家族や友人たちが本気でドン引きするほどの蜜月を駆け抜けたドミちゃんと俺をご覧ください。楽しかったなー。他のコマが消化試合気味だったぶん、最後の最後に「初心」を思い出させてくれたのは本当によい授業だった。「君の作るものにはセンス・オブ・ユーモアがあり、優れたWriterであることがつねにDesignを支えていて、この二つが共存しているのは素晴らしい才能なので、今後もWriterとしてDesignerとして、そこを伸ばしていくべき」というような総括をもらう。いや、総括なんだけど、それ一学期の授業でも一字一句同じこと言われたよね……いいけどさ……。世の中には「意味を超越して美しいもの」を好む人と、「意味を伴うからこそ美しいもの」を好む人とがいて、私とドミちゃんはともに後者であり、「透けて見える意味だらけ」のものが好きで、問答無用で人の心を打つ美しさには程遠いんだけど、レジビリティとかユニバーサルデザインとか、そういうものを志向している。もともとの共鳴度合いが高いだけに、「これはやっちゃダメ」「もっとここを攻めないと」と釘を刺されるのがとても勉強になりました。

ゲスト講評者が来るという触れ込みだったのだが、最初の30分くらいで帰ってしまったので後半組の私は見てもらえなかった。代わりに、Annaの授業で一緒だった男子がずっと見学していた。来季とるつもりなのだろう。授業後、生徒ほぼ全員で飲みに行くことになり、ものすごく執拗に誘ったのだが、「OK, let’s do raincheck, raincheck…(棒)」と言いながら逃げられ、生徒たちだけでVapianoでプロセッコとマティーニを煽りながら「結局、彼が私たちを愛してくれるのは、授業時間内だけなのよね〜」「私たちはこんなに彼を愛しているのにね」「そうそう、妻子には敵わないからな〜」「えっ、俺あの人ゲイか独身だと思ってた」「何言ってんの! 彼の携帯の待ち受け画面の赤子を抱いた美女を見たことないの!?」「そうそう、あんないい男が既婚でないはずがない、男子は全然わかってない」「いや、なんで女子はみんな当たり前のようにドミの私生活を覗いてるんだよ、こえーよ」みたいなクダを巻く、ドミちゃんファンクラブ。

12月21日。午後まで寝ていたと思う。夕方から「卒業式」に出席し、ジュリアと久しぶりの再会、なぜか『プラダを着た悪魔』プレイをさせられ(出席している卒業生の顔とリストの名前を一致させる作業)、ルシールのエピファニーについてのスピーチ、Mのスピーチ、卒業証書の入っていない卒業証書の封筒を受け取るセレモニー、宴会になってワインがあいてからふらりと立ち寄るアンディ、残飯をまるごともらってくれる謎の学生および教員、ほろ酔い加減でそのまま日本人学生の打ち上げへ流れ、コリアンタウンで日本人教授も合流して、ほどほどに解散。何を話したかまるで憶えてないけど楽しかった。

12月22日。また昼まで寝ていた。「ホワイ、ジャパニーズピープル、クリスマスをKFCで祝うー!?」みたいなネタをさんざん聞かされたので、無性にフライドチキンが食べたくなり、「きっとみんなクリスマス直前でチキンを食べ控えようと思ってるから、すいてるよ!」と言い合いながら「Bob White」へ。相変わらず「世界一のフライドチキン」だと思うけど、昔に比べて、ちょっと量が少なくなった、ような……。

12月23日。昼が寿司、夜がステーキという暴挙。同じタイミングで卒業し、帰国して就職活動を始める日本人留学生仲間のEちゃんを送り出す。

12月24日。聖歌隊に所属している友達に誘われてSt.Joseph教会のクリスマスミサへ。ミサの進行はわかるんだけど掛け合いパートとか英語で何と言うのかわからなかったりして面白い。はっきり言って日本でさんざん体験してきたミサのほうが荘厳で厳粛で厨二病的な意味でアツい。天使の羽をつけた幼女や姉妹でお揃いのドレスを着た幼女がいっぱい、新曲もたくさん。やっぱり60年代を境目に曲調から変わる感あるし2010年の曲などもあった。明らかに親族でも何でもない怪しい目つきの中年男が一人か二人か三人くらい、片隅に陣取り恍惚とした表情で聖劇に見入っていたのだが、まぁそんな者たちにも門戸を開くのが地域教会の役目であって、年に一度の天国を味わえてよかったねロリコンのおっさん、と思ったし、幼女にハァハァしに来た部外者という意味では私も大差ないので、賛美と感謝を捧げておいた。その後、Agがデザイン課題に選んでいたワインバー「Vin Sur Vingt」へ。メリークリスマステーキタルタル。ロゴはダサいけど、パリの路地裏からそのままウエストビレッジへワープしてきたような名店だった。

12月25日。東京から来たトモサクさんたち御一行と、『RENT』の聖地巡りをして、モガドールでクリスマスランチ。といってもいつものラムクスクスとフレンチトーストと卵料理など。やっぱり人数が多いといろいろシェアできて嬉しい。「嘆きの壁」を見せてあげようとユニオンスクエア駅へ行ったら、全部撤去されていて、ジュリア情報によると市の美術館に収蔵されるとのこと。夜はブルックリンまで出かけて、ジュエリーデザイナーAlain氏夫妻の家でホームパーティー、カモ料理を振る舞ってもらう。初対面なのにいきなりクリスマスディナーに呼ばれるのがすごいし、レストランでは到底食べられないような立派な鴨のザクロソースをオスもメスも存分に堪能、しかもワイン持ってった以外手ぶらだったのにプレゼント交換会のおこぼれにもあずかってしまい、「あ、アメリカ〜!」となる。素敵なアパートメントだったなぁ。

12月26日。またブルックリン、今度はサトコさんと年忘れ『Nutcracker Rouge』観劇。年末っぽくて楽しかった。

12月27日。『パーソン・オブ・インタレスト』観て一日が終わった気がする。ピザ屋のカウンターで持ち帰りを待っている美少年二人がめちゃくちゃ絵になってかわいかった。

12月28日。秋学期もよく頑張りました、というわけで「Great Jones Spa」のウォーターラウンジでふやける。『SATC』にかぶれてるけどあそこまでオシャレにはなりきれず、とりあえずみんな中途半端に全身黒ずくめの安物ドレスを着て鞄だけブランド物、というキラキラ女子集団がプールサイドでバスローブ一枚になってシャンパンぽんぽん空けて女子忘年会をしていて、別にそれ自体はいいんだけども、こちとら「銭湯」のつもりで来ているので、ちょっとうるさかったかな。ていうか、外着にフルメイクのままスパ入って来るなよ。みんな私より年上だと思うけど「学生団体観劇日」に当たったようなハズレ感。

12月29日。ロウアーイーストサイドでカナちゃんとサシ飲み。ステーキタルタルのお代わりにサーモンタルタルを注文するとまったく同じ盛り付けで出てきて笑う。AstorPlace駅まで送ってアラモをくるくる回していたら、赤いマフラーをぐるぐる巻きにした知らない男に「Nice Scarf!」と言われて「You too!」と返す赤いマフラーをぐるぐる巻きにした女。みんな酔っ払っていて、年の瀬。

12月30日。サンライズマートでおせちの準備。ものすごい行列。普段から物見遊山というか、「NYCの中の小さなジャパン」という一種の観光地みたいな感覚でふらふら眺めに来ている外国人客というのはいるのだけれども、よりによって年の瀬の今日という日にそれをしてしまった人たちが、狭い店内でおろおろまごまごしていた。アメ横とまるで同じだ。菓子コーナーに追いやられた彼らを蹴散らすようにして、どちらかが日系の男女二人連れや子連れの主婦、もはや日本食しか食べなくなったのであろう老夫婦などが、殺気立った目でそれぞれにおせちの死活問題と向き合い、レジ待ちで長蛇の列をなしている。5膳1パックで5ドルくらいする祝い箸を買おうかどうしようか迷ってやめる。栗きんとんが高すぎるので伊達巻もやめる。

12月31日。「伊勢」で年越しそば。昨日のサンライズマートに引き続き、年末年始ばかりは「せめて日本らしく」と考えた客で賑わっている。おそらくは向かいに座る日本人ガールフレンドに「私たち民族はニューイヤーイヴの夜にはジャパニーズソバを食べないと死んでしまうの!」みたいに言われたのであろう非日本人の彼氏が、ちゃんと彼女の願いを叶えてあげたぞとニコニコしながらスパイシー納豆なんちゃらみたいなキワキワのメニューを食していて、とても微笑ましいんだけど「貴様のそれは年越しそばじゃねえ」と言いたくなる。まぁ我々のテーブルも、おでんとか頼んでたけど。ネット動画をあさって紅白歌合戦を観て、深夜0時のちょうど15分前に画面をNY1に切り替えて、「ゆく年くる年」とする。今年もお世話になりました。

2016-11-28 / フィラデルフィア変態屋敷

11月25日から二泊三日でフィラデルフィアへ行って来た。宿だけ取ってチケット買わずに行ったのだけど、ペンステーションの窓口で発券するなり「この列車、あと2分で発車するから急げ! 乗り遅れるぞ、走れ!」と言われて、いきなりホーム(遠い)まで全力疾走させられる羽目に。そんなギリギリの切符売るなよ、と思うのが日本人感覚だが、まぁ間に合ったのでよしとする。特急で1時間半くらい。

初めて行ったフィラデルフィアは、想像以上に「古都」という感じだった。その名も「Old City」という地区が観光の目玉で、ガラス張りの施設に保管された独立宣言&奴隷制廃止の象徴であるリバティ・ベル(自由の鐘)とか、墓所の柵の外から覗き込んで賽銭を投げられる仕組みになっているベンジャミン・フランクリンの墓とか、はたまたベッツィー・ロス・ハウスという「星条旗を初めて縫ったババァの家」(※真偽不明の伝承)などがある。とくに三つ目の so what 感がものすごい。どこも大人気で見学者が大行列をなしているのだが、そこまでの愛国者じゃないので遠巻きに眺めて退散。街の土産物屋には「アメリカ建国ものがたり」「いえるかな? 大統領のなまえ」みたいな絵本やポストカード、歴代大統領の顔をかたどったマグカップやピンバッヂなどが売られているのだが、何を見ても「そのうちこの中にドナルド・トランプのグッズが混じるのかよ……」と暗澹たる気持ちになる。ただ、Penn’s LandingにあるThe Irish Memorialのブロンズ像は、この手の記念碑の中ではかなりよい出来で見応えがあったな。星条旗よりも「名も無き移民」を讃えるモニュメントにグッとくる。

シカゴよりさらに小さく、ボストンから学術性の高さを抜いた、「普通の地方都市」としか形容しようのない街並み。これからアメリカ国内旅行を続けるごとに、これ以上ないと思われる「普通」が、ますますどんどん「普通」になっていくのだろうな、と予想させる街並み。観光するべき場所はたくさんあるので旅行者目線だと「退屈」とは思わないのだけど、もしここに生まれ育ったら早く出て行きたいと思う街ではあるよな、と思う。名物のチーズステーキを食べて、街で一番オシャレだと評判のMenagerie CoffeeやらP.S.というビーガンカフェやらの店構えがなんとも「ニューヨーク風」だったことに少々がっかりしたりして、アイリッシュパブでビールを飲んだり、イタリア料理やイギリス料理を堪能したり。


butcher's son. #philadelphia

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それ以外、何をしていたかというと、二泊三日のうち二日間ほとんどを、バーンズコレクションで過ごしていた。残りの時間はフィラデルフィア美術館とロダン美術館で過ごしていた。フィラデルフィアへ行ったというより「泊まりがけで美術館へ行った」という形容がぴったりの旅だった。行く前までは「えー、私、印象派とかぽわぽわした感じの絵って苦手なんだよねー、マネ以外いいと思ったことないよ」と大変消極的な姿勢だったのですが、いやはや、バーンズコレクションはすごいですね。圧巻です。変態蒐集家の執念を感じる。特定ジャンルに苦手意識を持っている人ほど見に行く価値がある。よその美術館で一点か二点くらいフランス近代絵画を見てもフーンとしか思えず全然ピンと来ないの、あんたのせいじゃないですか! いい作品ほとんどあんたが自分ちに飾って非公開にしてたからじゃないですか! とツッコミが止まらない。

やはり、「個人美術館」の良さと、「邸宅美術館」の良さと、「特別企画展の常設」みたいな良さとを、すべて兼ね備えているのが素晴らしい点だと思う。たとえば大英博物館などへ行くとあまりの物量に「なんでもかんでも盗品ぶんどって並べればいいってもんじゃねーぞ」と思ったりもするわけだが、バーンズコレクションの場合もはや「ルノワールさんちでかわいくしてもらえた子はみんなバーンズさんのお屋敷へお嫁に行けるのよ」という『ミネハハ』みたいな話なので、本人たちが幸福ならそれでいいじゃないか、という気分にさせられる。屋敷全体が美しい人間の営みを一つ一つピンで留めていった昆虫標本みたいなんだもの! まぁ合間にスーチン作品とか挟まってるし怖い部屋はマジで怖いのですが。細かく区切られた小部屋に一面びっしり並べられたレイアウトの一つ一つにオタクの狂気を感じて、本当に、良さしかなかった。そして、もののついでみたいに置かれているジャックリプシッツの彫刻が、どれも本当によかった。後からあれこれ調べたけれども、やっぱり私がよいと思うものはほとんどがバーンズコレクション所蔵だったという。おまえ本当そういうとこある。

一日目にバーンズ観たあと、二日目にフィラデルフィア美術館観て、三日目またバーンズに戻ったのだが、二日目の「大衆に開かれた美術館」を巡っているとき、明らかに己の絵画鑑賞ヂカラのステージが一つ二つ上がっているのを感じた。一日目に「ガチオタの変態屋敷」で得た近代絵画への知見が即効で活かされている。それがいい効果なのか悪い効果なのかわからない。ただ私はもう印象派を見ても「苦手」だなんて思うことは二度とないだろう、というほどに蒙きを啓かれた。そして「バーンズさんのように、周りから何を批判されようがガン無視して引きこもり、己の城を築いて好きなものにだけ囲まれて幸福に生きて死にたい」と思いました。こんなお屋敷と比べたら、私は自分の家に、まだまだ嫌いなものが溢れているよなぁ。断捨離しましょう。

そういえば、元のお屋敷から市内中心部へ移転するとき、コレクションの移設は故人の遺志に反すると激しい反対運動もあったらしいのですが、新しい美術館の建物自体もとても高潔で居心地のよい空間だったと思う。ちょっと鈴木大拙館を彷彿とさせるような、水に浮く墓標。




2016-11-24 / 雨宮まみさん

 雨宮まみさんについて考えるときいつも浮かぶイメージがある。2011年の年末、初の単著『女子をこじらせて』の刊行に合わせて彼女は、「こじらせカフェ」というゲリラサイン会の告知をブログに投稿した。「特定の日時に喫茶店のテーブルに目印を置いて佇んでいるので、声を掛けてくれれば著作にサインをする」というものだ。

 新刊を買ってカフェへ赴くと、雨宮まみが一人でお茶を飲みながら私たちを待っていてくれる。書店や出版社の仕掛けるフェアとは異なり、彼女個人が一対一で、読者とサシで向き合う。面白いことを考えつく人だなぁと思い、当時勤めていた職場のパソコンでブラウザのタブを開きっぱなしにして何度も読み返した。誰が来るかわからないところにたった一人で立って、何が飛んで来ようとも「個」として受け止め、すべてをその場で打ち返す。そういう仕事を有言実行する人は、多いようで、じつは少ない。

 直接ご一緒したときの楽しい思い出以上に強固なイメージとして、私の頭の中にはずっとこの「不特定多数の訪いを待ち受ける雨宮まみ」の想像図がある。行ったことのない町田の喫茶店の、二人掛けのテーブルが、格闘技のリングのように思い浮かぶ。まるごと真似しようと思ったわけではないし、逆立ちしてもできっこないのだが、それは会社を辞めた後、私が「個」として世界と向き合う際の、お手本の一つだった。

 出版社勤務を経て文章を書く仕事を始めた、という経歴だけなら似ているし、時々ものすごく大雑把に一つに括られることもあったが、それはろくに顔を見比べもしないで姉妹を「似てる」と言うような無礼さであって、雨宮さんと私とは当然まるで違う。同じブランドで買い物をしても選ぶアイテムがこんなに違う。同じスタジオでプロフィール写真を撮っても仕上がりがあんなに違う。同じタイミングで同じ男を好きになっても、惚れた理由や愛し方がまるで違う(※ダグラス・カイエンのことです)。

 一緒にイベントに出演するとき偶然にまったく同じ赤いドレスを衣装に選んだことがあり、お揃いで真っ赤な口紅をつけようね、と示し合わせたのに、私が持参した口紅はクリアなツヤ感あるもので、まみさんはみっちりマットな女優っぽいやつだった。「これは私よりも岡田さんのほうが似合うだろうから」とアクセサリを譲ってもらったこともある。たしかに雨宮さんのテイストとは似て非なるもので、そして私には意外とよく馴染んだ。こんなにまるっきり違う人と、それでも幾つか共通点があるのは、大変喜ばしいことだと思っていた。

 直接親しくなった後も、私にとって雨宮さんは「待っていてくれる」人だった。集合時刻に遅れて文字通りお待たせしたこともあるけど、もうちょっと概念的なもの。対談中、次の発言がばっちり用意されているのに、こちらがとりとめもない話を終えるまでじっと待っていてくれる、とか。誰かと誰かを引き合わせる約束をしたら、全員の都合がつくまで忘れずに待っていてくれる、とか。

 あるいは旅先で買い物を頼まれたとき、雨宮さんに渡す包みが滞在中ずっとスーツケースに入っていて、彼女が東京でそれを待っていてくれるのが嬉しかった。同じ芝居を観て感想をシェアするのも楽しかった。彼女のほうがフットワークが軽いので、一緒に観るとき以外は大抵、私が待たせることになる。とあるタカラヅカの夜公演を観に行ったら、同日の昼公演を観終えた雨宮さんにお茶に誘われ、興奮気味に「んもう、今すぐ観て!」と急かされ、「ええ、今すぐ観ます」とツッコんだことがある。

 今年7月の東京出張中、またしても「今すぐ観て!」と薦められ、東劇でシネマ歌舞伎『阿弖流為』を観た。終映後、建物の外に出て、あー、これ早くまみさんと語らいたいなー、とスマホでメッセンジャーを開いた瞬間、万年橋の向こうからバッチリおしゃれした雨宮さん本人がつかつか歩いてきた。高らかに「ラブ・ストーリーは突然に」のイントロが流れるほど完璧な絵だった。たった十日間の一時帰国でこんな偶然って起こるだろうか、あまりの運命的な出会いに取り乱してキャーキャー騒ぐ私と対照的に、彼女はおっとり笑って「私、連日来てるからさぁ」とサッと夜回のチケットを買った。ちょっとだけ立ち話をして、いくつか先の約束をして、「また、日比谷かブロードウェイか、どこかの劇場前でね」と別れた。私にとってはそれが最後の挨拶なので、たぶんいつまでもいつまでも、とくに東京宝塚劇場のロビーの人混みに、ずっとまみさんを探してしまうと思う。

 私は彼女を待たせっぱなしだった。必死で追いかける局面もあったけど、私のいいかげんさが彼女のひたむきさに追いつくなんて到底不可能なことにも薄々気づいてはいた。多少モタモタしても彼女は余裕で待っててくれるだろうと、甘えていたところもある。あまりに激しく回転しているから、まるで静止しているように見えていた。facebookを開けばいつも彼女の更新がタイムラインの一番上に来ていて、大学のクラスメイトより頻繁に会っているような気さえしていた。

 まみさん、なんで死んじゃったの! 次帰ったときごはん行こうって言ったじゃない! 生誕40年記念祭の話を聞くの楽しみにしてたのに、40歳で死ぬってなんなん!? と言ったら、「ねー、あたしもびっくりだよー!」とからから笑いながら返事が返ってくる、気がする。それもまた私の脳内にだけ描かれた美しすぎる幻である。そんな勝手な「想像図」に満足してないで、なんでもっと自分から動いて彼女に会いに行かなかったんだろう。何度でもそう後悔するんだが、私はいつでも、回転が遅い。

 書籍化を前提とした連載、始まったばかりの新企画、ぷつりと途切れた近況投稿、どれを見てもまるで信じられない。もしも自分で自分の人生の幕を引くとなれば、あの人は全部の後始末を執拗に完璧にばっちり終えていくだろう。芸能界を引退する歌手がステージにマイクを置くみたいな、ああいう派手なセレモニーやるでしょう。いやー、ないでしょう、ないない。遺言状の準備はあったらしいけど、もしものことがあったらパソコンのハードディスクが自動的に爆破消滅する装置くらい仕込みかねないでしょ、デミフレアナパームぶっぱなしたいよねって言ったじゃん。これはない。こんなのってない。らしくない、全然、らしくない。「うっかりかよ!」とツッコミを入れることしかできない。

 東海岸時間で16日水曜深夜、訃報を聞いてすぐ、親しい人たちが一様に口を噤んでいるところへ、奇妙な文面のネットニュースがいくつも流れてきて驚いた。Twitterではそれが拡散されて大騒ぎになっていたけれど、俄かには信じられなかった。あんなに葬式を嫌がっていた人が突然亡くなって、公式発表が出るまで伏せておいてほしいという近親者の意向とともに伝わっているのに、なんでもう軽々にその死が何かの象徴のように報じられ、バーチャル通夜会場で評論の対象になんかなっているのか。信じられない、こういうの大っ嫌い、どうして静かにできないの、冒涜じゃないか、口先ばかりご冥福をお祈りしている連中は本当に彼女の書いたものを読んだことがあるのかよ。と、ものすごく腹立たしい気持ちになった。

 今まで便利なインターネットに甘えていたぶん、他でもないインターネットに手ひどいしっぺ返しを喰らった気分で、電話やメールといった内向きに閉じた連絡手段で共通の知人と話しながら、親指がずっと雨宮まみのトップページをリロードしていた。雨宮まみの急逝について私がモヤモヤ抱えているこうした憤りを、まみさんならもっと的確に言語化してくれると思ったからだ。朝5時まで一晩中リロードし続けたけれども、どれだけ待ってもまみさんの更新はなかった。あっそうか、本人が、死んじゃったからだ。と思い知るのに半日以上かかり、その間に彼女は荼毘に付されていたらしい。この目で見られなかったし、全然実感がない。

 それで、これはどこに向けて書けばいいのかわからないけれど、インターネット上に残っている雨宮まみさんの痕跡が、これからもずっと残されたままだといいなと思っている。「超いい表情だから絶対アイコンにすべき!」と言った写真が使われている、このプロフィール画面を私はまだまだ見ていたい。何か素敵なものにふれて感極まって検索したらずっと昔に誰より早くものすごい熱量で考えられる限りの感想をすべて書き尽くした記事を発見し「またid:mamiamamiyaか!」と何度でも打ちのめされたい。いつも新しく素敵な人たちを次々に紹介してくれて、先日もそのうち一人とニューヨークで献杯したのだけど、私と彼女のfacebook「共通の友人」欄には、ずっとまみさんが燦然と君臨し続けていてほしい。「最初の出会いってたしか2008年で、高河ゆんが描いた『CAROL』の下敷きでしたよね?」と思ってぐぐったら、こうしてすぐに当該tweetが見つかってほしい。

 遺された者の勝手な思い込みや想像図にまさる姿は、本人が書いた一字一句の中にしかない。たとえ出版社の刊行物が絶版になっても、アカウントは「個」のものだ。新規更新の停止が仕方のないことならば、過去ログだけでもソースを眺めていたいし、トラックバックを飛ばし続けたい。もう死んじゃった人に「消えないで」って言うほどアホみたいなことはないし、「私の胸には今も生きている」といった表現でしかない表現もあまり好きじゃない。でも街角でばったり会えないならせめて、インターネットで待っていてくれよ。

 吐き出さずにいるとこのまま美しい妄想の「イメージ」が上塗りされていくばかりで、実際には行きもしなかった2011年の町田の喫茶店にだって、行って会って人生相談でもしたかのような錯覚までおぼえてしまう。でも一方通行のまま「個」を「個」として受け取っただけなんだよね。しなかったこと、伝えなかったこと、そんなものの美しさにこんなに簡単に屈するんだったら、じゃあ物を書くっていったい何なのよ、と、私まで消えてしまいそうな気分になったので、今はわがままに自分の書きたいことだけ書き残しておきます。寂しいです、とても。